川端裕人「今ここにいるぼくらは」

大傑作と確信。日本版「スタンド・バイ・ミー」と呼んでもいいかも、と思ったが、私の中ではスタンド・バイ・ミーを超える作品だった。

脱線するが、川端裕人を知ったきっかけは2012年頃にNHKで放送されていたアニメ「銀河へキックオフ!!」だった。当時小学5年生だった私はサッカーをやっていたこともあり結構夢中だったと思う。原作小説「銀河のワールドカップ」も当時買って読んだ。そしてこの「今ここにいるぼくらは」を買って読んだのもこの頃だったと思う。数冊程度しか読んでいなかったが、この人が書く文章が好きだと明確に感じたのは川端裕人が初めてだったかもしれない。

さて、この小説は当時小学生だった私が既に読んでおり朧げながらもあらすじから結末までなんとなく把握していた。しかし、小学生の私には味わえなかったであろう感動を与えてくれた。

幼い頃の小さくも大きな冒険、不思議な友人との不思議な意識の共有、初めて死を感じた瞬間、UFOとか未確認生物とかに本気でのめり込んで本当に存在するんじゃないかと体感したあらゆる体験、学校をサボって罪悪感に苛まられる居心地の悪い感覚、転校生の女子との出会いと別れの狭間にある無意識な性の意識の芽生え、大人のカッコよさと弱さ。そしてお前のいる場所はここじゃないという感覚。

サッとノスタルジーという言葉で片付けてしまうには余りにも惜しい。全く一緒では無いにせよ似たような感覚、経験、実感を抱いた人間は多いと思う。

この本を読んで小学1年生の時の死を感じた瞬間を思い出した。当時、アンジェラ・アキの「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」が流行っており、NHKみんなのうたでも定期的に流れていた。

同時期、夏休み兼お盆のため母の実家に行った。山の中に家があり、川がすぐ目の前に流れている。辺りにはコンビニやスーパーなんてものはなく、あるのは自然だけ。

まさしく田舎という場所で、私の田舎のイメージは未だに母の実家周辺である。その実家の畳に積まれている敷き布団の上で無性に泣きたい気持ちになったのを思い出した。理由はアンジェラ・アキの曲だと思う。だけど改めて歌詞を見るとそこまで死を連想させるような歌詞は無い。強いて言うなら「消えてしまいそうな僕は」くらいか。曲調が当時の私には悲しく感じたのかもしれない。今考えると自分でもよく分からないトリガーだが、当時の私は私なりに死を見つめ、多少の恐怖を抱いていたのかもしれない。

そのちょうど1年後に大好きだった祖父が亡くなったが、その時に私は死への何らかの感覚を抱いていただろうか。全く思い出せない。

と、このような子どもの頃に体感した、ありふれつつも今までの日常には存在しなかった新しい感覚(違和感)を川端裕人は丁寧に拾い集めている。

その感覚を抱き、成長し、感覚を疑いながらも受容に至る過程に美しさすら覚える。

中学生になる前の主人公博士とサンペイ君が釣りをする最後のシーンの言葉

「退屈だった。その退屈が嫌ではなかった。

小学校時代が終わって、まだ中学生ではなく、隣にはサンペイ君がいて、セイジさんとするはずだったコイ釣りをしている。

充分だと思った。目頭が熱くなるくらい、これでいいのだと思った。」

本当に主人公のように泣きそうになる。シンプルに今ここにいる、ここで友人と釣りをしている。これだけ。これでいいし、これがいい。

シヌトキハ、ジブンダケ。これでいいのだ。

ここはおまえのいるべき場所じゃない、おまえの居場所じゃない。これでいいのだ。

主人公の博士はこれでいい、と転校などの紆余曲折を経て小学校6年間で感じるまでに成長した。そして川端裕人がわざと残した感覚を小学生最後のサンペイ君との釣りによって、博士自身に拾わせたのだ。

数年後にまた読みたいと思えるような作品だった。自分に潜んでいた奥底の記憶を代弁してくれて、昇華してくれた作品だった。